「卯(う)の花の におう垣根に ほととぎす 早もきなきて 忍び音もらす 夏は来ぬ」― 私どもが小学生のころに歌った唱歌である。明治29年、佐々木信綱作とある。この人は、万葉集研究で知られた国文学者であり、また、父・弘綱の指導を受け、「竹柏園」という結社の指導者となり、「心の花」という歌誌を発行、歌は温和、平明といわれ、古風だが分かりやすい歌を作ったことで知られている。しかし、この詩句の「におう」とか「忍び音」は、小学生の日常生活からは離れた、古語の類であった。私には「におう垣根」が分からなかった。そこで、「におう」と「垣根」との関係が分からない。「はやもきなきて」となると、「きなきて」は読むは読むけれど、「来鳴き」という意味が分からないので、切り方が分からない。「はや もきなきて」と読むと「もきなきて」とは何が何だか分からなくなる。また、「しのびね」というのは小学生には分からない。しかも「しのびねをもらす」となると「小便をもらす」なら分かるが、「もらす」が液体でないという考えは子どもには分からないのである。
「におう」も「臭いもの」なら分かるが、「におう垣根」となるとどうか? 私は後年、落語が分かる年齢になって、これは「噺(はなし)」のネタになると思ったくらいである。
向田邦子さんというシナリオライターの方がいた。「父の詫び状」という短文から世に認められた人で、ホームドラマの脚本家としても活躍した。この人も話題にしている歌に「春 高楼の花の宴」に続く「めぐるさかずきかげさして」は、「めぐるさ かずき」と読みたくなるが、これでは意味は通らない。
桐蔭の学園歌でも、これは詞句には疑問がないが、歌う時には(3)の秋の部分の最後の章など「おのーづとーむーかう」と歌いたくなる。合唱を聴いていても意味がとれない。
歌にはリズムがある。外国の合唱団が来て、アンコールにこたえて、桐蔭の学園歌を見事に歌ったことがある。後で、パーティーの席上で聞いてみると、日本語は「コンニチハ」「オハヨウゴザイマス」しか分からない。全く意味は知らないで歌っていたのである。逆に意味は分かっているが音痴の歌は、意味が分からなくなる場合がある。演歌で売れるものは、作詞、作曲ともに優れたものが多い。どちらかが不十分でも売れるという場合は、文句よりも曲ということになって、歌う人が意味を知っていれば情感がこもるはずであるが、知らなくても曲が優れていれば、意味を知っている聴衆が情感を受け止めてくれるのであろう。
日本語には、言葉の感じよりも、その語のできた意味の上で識別されるものがある。五月(さつき)晴れは、5月の雲一つない晴天ではなく、梅雨晴れと同じ意味で、長い梅雨の間に訪れたつかの間の晴天のことである。五月(さつき)は5月という印象で五月雨という連想がつきまとうので、5月のかげりなき晴天を五月晴れとは言わなかったのであろう。これは誤用すると、連想が違ってくる恐れがある。
5月の明るさを詠んだ歌では、
「天も地も真青(まさを)き五月ふかみ ゆく今日のこころよ 翳りのあるな」
窪田 空穂
「あるな」の「な」は、希望を示す。5月の天地のように雑念の萌(きざ)すことのない一日を願った意である。
「乙女合唱絶えずきららに五月の日」
中村草田男
5月の陽光と乙女たちの合唱、清らかな輝きを賛美したもの。これは、5月の太陽の光が生きている。5月の空自体の明るさを一語で表した言葉は、「五月晴れ」が誤用となると、見当たらない。
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